「家族」という居場所
あなたが生まれた時、最初に属するコミュニティは「家族」である。
特殊な環境でない限り、人は「家族」という居場所の中で幼少期を過ごす。
しかし思春期を迎えると多くの人は、家族というものを煩わしく思うようになる。
特に男は、
「母さんと一緒に買い物なんか行けるかよ!」
などとツンデレになってしまうのだ。
子どもから見た大人
私が思うに、この現象には理由がある。
家族というコミュニティに属した時、その人はそのコミュニティの中では最年少だ。
順当に歳を重ねるなら、その人が最後まで生き残ることになる。
つまり、家族というコミュニティにおいては、自分が最後に取り残されてしまうのが確定している。
おそらく人間は本能的に、そのことがわかるのだろう。家族というコミュニティの中では、いずれ自分一人が取り残されてしまうと。
つまり家族というコミュニティに依存しないように、独り立ちするために、思春期になると家族から離れようと本能が働きかけるのだ。
家族以外の自分の居場所を探すこと、新しい自分の家族を作らなければ、一人で生きていくことになる。
親目線で子供を見ると、いつまでも自分のそばに置いていたくなるものだ。子供が思春期になり反発してくると、つい自分のいうとおりに力づくで命令したくなるが、反発してくるのは子供が独り立ちしようと本能的に行動しているだけなのだ。
そんな時はそっと見守って、助けを求めてきた時だけ手伝ってあげればいい。
親から見た子ども
人は愛する人に対して、あれこれしてあげたり、世話を焼いてあげたりしたくなるものだ。その気持ちは間違いなく善意からくるものだろうが、本人には意識できない何%かは支配欲・執着心が含まれている。
「自分がいなければこの子は生きていけない、自分が守ってあげなければいけない…」
そういった悪意ではないにせよ、執着心が時に子どもや愛する人に不快感を与える場合は少なくない。
子供を手放したくないもう一つの理由は、思春期を過ぎた大人は精神的に安定し、反発心をなくしてしまうということ。反発心がなくなるということは、危機感がなくなるということ。危機感がなくなれば、ずっとその場所に居座ろうとしてしまう。
つまり、家族というコミュニティがずっと続くものと錯覚してしまうのだ。
特に結婚して子供も生まれ、幸せが絶頂の時は、この瞬間がいつまでも続いて欲しいという執着心に心を奪われてしまう。
子供が生まれた幸せと忙しさ、精神的な安定のために、今度は親の方が家族というコミュニティから出られなくなり、子供に執着する。
家族という居場所
日本社会においては、家族は一緒にいるものという認識が強い。しかし血が繋がってるからといって性格が合うわけでもない。面白いのは、私の家族は何年も同じ食事をとっていたのに、みんな食べ物の好みが違うということ。同じことをしていても個性には逆らえないのだ。
私には妹がいる。私が一人暮らしをするまで家族と一緒に住んでいたが、その時はそこまで妹とも仲良くなかった。しかし今は妹は結婚して、たまにしか会えなくなった。すると今のほうが仲良くなったのだ。適度な距離感を保つのも、愛情には必要不可欠な要素なのだろう。
家族という居場所は、多くの人にとって最も身近な居場所でありながら、最も移り変わるのも早い。
あなたの思う幸せと、愛する人の思う幸せは、同じものではない。
人は皆、別々の人間だということを割り切らなければ、愛情は簡単に支配欲に変わる。
家族という居場所は、誰かを縛り付ける場所ではない。
疲れた時に戻って来られる目印となり、そっと見守ってくれる灯台のような場所。
P.S 私は独身で子どももいませんw