感情から文章へ
「感情を文章へと変える時、そこにはどんなプロセスがあるのか?」
ごきげんよう。管理人の吉岡です。
今日は自分が感じたことを文章に直す時に、一体どんなプロセスがあるのかを考えてみた。
私は先日、ついにブログで100記事書くという目標を達成した。
しかしそれと同時に妙な気負いも感じてしまうようになった。
・段落や改行をして読みやすくしなければ…
・もっと面白い文章を書かなければ…
などなど。
一体お前ごときが何を調子に乗っているんだというツッコミを自分に入れたくなったが、なぜかそういう気持ちを抱いた。
何か言いかけて、結局何もいえない草食系男子のように、最初からきっちり書こうと一行一行確かめながら文を書いていると、文章が全然でてこなくなったのだ。
理路騒然と書かれた文章は読みやすく、説得力もあるかもしれないが、個人的には勢いのある文章というのも好きだ。
細かい部分の完成度は高くないのかもしれないが、文章が燃え上がるかのような情熱を感じる文とでも言おうか。
そして私のブログの初期のものは、どちらかというとそういう勢いで書かれた文が多かった。
だいぶ雑な部分もあるが、とにかくこういうことがいいたい!という気持ちが、書いた本人である自分自身にも伝わってきたのだ。
懐かしい…
と涙を禁じ得なかったが、そんなに昔のことでもないし、何よりそれを書いたのは私だ。
100記事を書いたことにより、自信と一緒にうぬぼれまでも手に入れてしまった。
後者の方は早急に捨て去ってしまわねばならない。
まだまだ私の野望はこんなところで途絶えさせるわけにはいかないのだ。
文章を書く際にやるべきことは、カッコつけずに全てを、文字通り全ての感情を吐き出してしまわなければならない。
するとその勢いに引っ張られて、その他の色んな感情も湧き上がってくる。
それを逃さず捕まえて文章にする。文章を書くにも勢いとタイミングが必要なのだ。
本来感情とは、何の脈絡もないものだ。
なぜならその時点では、自分さえ理解できればいいだけなのだから。
しかしそれを誰かに伝えたいと思うなら、ちゃんと道路を整備して、交通整理してあげなければ、ただ喚き散らしているだけの子供と同じなのだ。
分別のある大人なら、きれいにパッケージングしてリボンもつけて差し上げなければならない。
そして100もの記事を書くと、当然だが内容がカブってくるものもでてくる。
しかしそれも気にしてはいけない。
名のあるライターでさえも、似たようなツイートを繰り返している。
ひどい場合はコピーしたものを定期的にツイートしているという輩もいる。
(せめてちょっと手を加えてつぶやけよ…)
なので私のようなド素人が変に色気を出して素晴らしいものを生み出そう!なんて100年早いのだ。
使い古された言葉だが、質を得るためにはとにかく量をこなさなければならない。
そして100記事を書いたことによって、それを感覚で知ることができたのだ。
もし実践せずにその言葉だけを鵜呑みにしても本当の意味はわからなかっただろう。
自信と責任は表裏一体であるのかもしれない。
実績ができればそれは自信となるが、その一方で実績を汚さないように守りの姿勢になってしまいがちだ。
しかしその実績は、すがりつくために手に入れたものではないはず。
継続していたら、いつの間にか手の中にあったもの。
本来は自分のものではなかったから、執着する理由はない。
続けていける、という自信があれば、どのような実績も捨ててしまっていいのだ。
というか、捨てる勇気を持たなければ、その重圧で身動きが取れなくなるだろう。
継続していくためには、常に身軽でいなければならない。
自信がついた今だからこそ、もっと身軽になろうという意識を持つ。
この記事も久しぶりに勢いに任せて書いてみたら、ものすごく楽しかった。
もっと自由に書いていいのだ。
私の眼の前には、邪魔するものは何もない。