しあわせの風景
私には妹がいて、妊娠中だ。
今年の年末には生まれる予定。
晴れて私もおじさんになる。
今日は初めて妊婦のお腹を触ることができた。
女友達が妊娠していた時はあったが、さすがに友達のお腹を触るのは気が引けて、今まで触ったことがなかった。
結構強い力で蹴ってくる!
感動した…
妊娠中は足がむくむらしいので、母が妹の足をマッサージしてあげていた。
そんな風景を見るだけで、涙がでそうになった。
私には職もなく、嫁も彼女もなく、金もない。
しかしそんなことは、とても些細なことなのだろう。
甥っ子が生まれてくると思うだけで、幸せを感じられる。
母の両親、つまり私の祖父母はもう他界している。
そんな母も初孫ができるわけだ。
今年生まれた人数や、今年亡くなった人数などの統計があるが、そんなものは赤の他人だから単純に増えた、減ったと言えるのだろう。
家族が亡くなり、家族が増える…その悲しみや喜びは数字で計れるようなものではない。
自殺やいじめ、事故、災害などで今年もたくさんの人が亡くなった。
そういったニュースをテレビで見る。
間違いなく、それはとてもつらいことだと感じる。
しかし、数日後には忘れてしまう。
彼ら、彼女らが私にとっては他人だからだ。
彼ら、彼女らを愛する人たちの悲しみは、どこへいくのだろうか。
私の抱えている悩みなど、ほとんど何の意味もないようなものだ。
しかし、本人たちにはどんなつらさを抱えているのか、傍目にはわからない場合もある。
しあわせの風景は、どこにあるのか。
どこにもないのか。
気付いていないだけなのか。
私にはその風景を想像することができる。
憎しみやつらさにとらわれた時でも、それを思い出すことができることが、強さなのだろうか。
幸せの風景がどこにもないと思っているのか。
見つけることを放棄しているのか。
どこにいっても見つからない時は、そっと目を閉じて、人は結局のところひとりなのだと思いだしてほしい。