ジュラシック・ワールドはなぜつまらない
『2015年、14年もの歳月を経てついに発表された、ハリウッドの巨匠スティーブン・スピルバーグ監督の超人気映画「ジュラシック・ワールド」2018年には第二弾も発表された!しかし…』
まさに、堕落した王国
言わずとしれたハリウッドの超人気映画「ジュラシック・パーク」は私も大好きで、14年ぶりの新作を楽しみにしていた。
だがしかし、感想としては
「???」
である。新作第一弾の時は疑惑のようなものだったが、二作目の時には確信に至った、「面白くない」と。
⚠本記事において、「ジュラシック・パークⅠ〜Ⅲ」を初期三部作、「ジュラシック・ワールドⅠ・Ⅱ」を新シリーズと呼ぶことにする。
初期三部作と新シリーズ二作において何が違うのかに注目してみた。すると大きく分けて以下の6つの相違点を発見することができた。次の章で一つ一つ掘り下げていきたい。
- テーマが多過ぎる
- 恐竜が多過ぎる
- まるでヒーロー映画
- 恐竜というよりエイリアン
- サルの曲芸?
- 悪役しか死なない
つまらなポイント
先程紹介した、私がつまらないと思う6つのポイントを以下で詳しく説明していく。
1.テーマが多過ぎる
まず最初の相違点は、新シリーズは初期三部作と比べて、物語のテーマが多過ぎるということである。
初期三部作のストーリーは至ってシンプルだ。「島に取り残されて、恐竜の魔の手から逃げる」これにつきる。
もちろん悪役の存在や人間の欲望の醜さといった側面の描写もあるが、その部分はあまり細かく描かれてはいない。なので純粋に恐竜から逃げるスリルや恐怖を楽しめる映画となっている。
しかしそれに比べて新シリーズは…
・恐竜を使って金を儲けようとしている輩の描写がくどい、もしくは逆に中途半端。
・(ネタバレになるので詳しくは割愛)とある少女が秘密を抱えているのだが、それに対する説明が不十分なので全く感情移入できない。
・恐竜から逃げる時の描写がとにかくド派手。なので、恐ろしいものから逃げている恐怖というよりも、遊園地のアトラクションにおいての恐怖にしか感じない。
など、見所となる部分が多過ぎて注意散漫になってしまうのだ。
2.恐竜が多過ぎる
初期三部作において、重要な位置付けの恐竜はティラノサウルスとヴェロキラプトルだけであった。(Ⅲはスピノサウルス)この二種類の恐竜から逃げられるかがストーリーのキモであるので、注意を他の事に向けずに映画に集中することができたのである。
しかし新シリーズになってからは、出てくる恐竜の種類が増え過ぎた。それだけならまだしも、ほとんどの恐竜に見せ場があるので、映画としてはごちゃごちゃしている感が否めない。
そして見せ場を作る弊害なのか、恐竜が現れるタイミングが良すぎてあまりに不自然。
3.まるでヒーロー映画
私が一番つまらないと感じた点はここである。恐竜が現れるタイミングが良すぎるので、動物の本能や野性味を感じられない。もはや恐竜映画なのかヒーローもの(戦隊もの?)なのかよくわからない映画に感じたのである。
4.恐竜というよりエイリアン
ジュラシック・ワールドⅡにおけるメインの敵は、人工的に作られた恐竜インド・ラプトル。しかしこの恐竜のビジュアルは、強さや怖さよりも不気味さが勝ってしまっていて、恐竜というよりただのエイリアンに見えてしまう。
つまり「ジュラシック・ワールドという恐竜映画」に登場させる必然性を感じない。そこだけ切り取って別のエイリアン映画を撮ってもいいのではないか、というのが私の思うところだ。
5.サルの曲芸?
新シリーズにおいて、主人公が育てたヴェロキラプトル「ブルー」が物語のキモを握る恐竜であるが、それがまるで人間の味方であるかのような描写。この設定に関しても私は疑問に思う。
なぜなら、恐竜とは言うまでもなく動物、しかも地球史上最も狡猾で獰猛な獣だ。そして初期三部作ではもちろんそのように、恐竜は全く人智の及ばない、人間の全ての力を簡単に破壊する、いわば天災のような存在として描かれていた。
心を通わせるのが犬や猫ならまだわかるが、よりにもよって地球の歴史上最も危険な動物である恐竜を手懐けようとするとは!
6.基本的に悪役の人間しか死なない
初期三部作において恐竜に殺される人物は敵味方関係なくランダムであった。しかし新シリーズでは基本的に悪役しか死なない。
悪人を殺すのが人間ならまだ理解もできるが、理性を持たない獣が悪人だけを殺すというのが、あまりにも不自然。こういった描写も、ヒーローもの映画に見えてしまう要因の一つであろう。
まとめ
批判ばかりしているが、この映画は間違いなく面白い。今更何を言っているのか、と思われるかもしれないが、私が提起しているのは、恐竜映画にする必然性を感じられない、ということなのである。
長々と語ってしまったが、ジュラシック・ワールドに対する不満を一言で言い現すことができる。
「やりすぎ」だ。
ジュラシック・パークは映画の歴史上においても革命的なものであったのは言うまでもない。映画史においての一つの到達地点であろう。その功績は計り知れない。
初期三部作公開時と比べてCGの技術も進歩し、実績のある映画・監督というのも相まって莫大な予算をつぎ込んだのであろうが、これではまるで成金どものサーカスである。
映画とはどれだけよくできていたとしても所詮は「人工物」である。見ている人がどれだけ熱中していたとしても、無意識のうちに心の中で「人工物」であるという前提で見ているのだ。
架空の存在であってもセットやCGの進歩で限りなく本物に近い質感がだせるようになったが、それゆえに「嘘くさく見える」という矛盾が発生している。
ジュラシック・パークの一作目はCGも拙いし、よく見ればセットも粗がある。しかしだからこそ一生懸命に人の手で作ったという暖かさが伝わってくるのだ。
今一度原点に戻って、恐竜の本能を背筋に感じるような映画が見てみたいものだ。
ジュラシック・ワールドⅢ楽しみだな…
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