Story of my life

日常に転がる疑問を掘り下げるだけ掘り下げて放置

読書も筋トレの一種ではないか


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読書というのは、手間のかかるものだ。

 

漫画のように絵があるわけでもなく、テレビのようにわかりやすく動画にもなっていない。


文字だけで場面を想像し、誰と誰が知り合いで、どんな状況で…といったことを一つ一つ確認しなければならない。


そうしなければ、見ず知らずの言語を読んでいるかのように、ただ文字の羅列を目で追ってなんとなく読んだ気になって、本棚の端っこでホコリをかぶるか、あるいは古本屋に二束三文で売り渡すだけになってしまう。

 


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読書がいいものだということは、なんとなく感覚でしかわからない。とにかくいいものと信じて読み続けられるのは、もともと本が好きな性格なのかもしれない。


私も読書がいいものと決めつけて、とにかく少しずつ読んできて、何年もかかってようやく読めるようになってきたように思う。


最初は赤川次郎東野圭吾など読みやすいものからはじめて、それから短編集や短編小説を読んで少しずつ文字を追うことに慣れてきた。
長編小説を最後まで読み上げた時は、それだけで達成感が生まれるものだ。

 



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昨今はビジネス書や自己啓発本が流行っている。それらは読みやすいから入門編としてはいいと思うが、真の読書の喜びとは、やはり小説にあるのではないか。


ビジネス書や自己啓発本は、端的にいうなら時間を短縮するためのハウツー本だ。無駄話や寄り道は一切ない。ということは間違いなく読みやすい。


しかし無駄話や寄り道のない人生がつまらないものであるように、小説もまた回りくどい場面にこそ意味がある。
手っ取り早く成果を得たい現代の忙しいビジネスマンにはいいかもしれないが、そういった本は娯楽にはなりえないのではないか。


読書は言うまでもなく娯楽である。ただの趣味の1つだ。楽しみや気楽さ、寄り道や無駄話を楽しむことが娯楽なのだ。


しかし娯楽であっても、たやすい娯楽ではない。よほど集中力や想像力がない限りは、一冊二冊読んだだけでは良さはわからない。


少なくとも私の場合は、何年もかかってようやく最近楽しめるようになった。先程も言ったように、ビジネス書や自己啓発本では、心の底から満足することはできない。


ただの遊びや楽しみであるからといって、なんの努力もいらないということにはならない。


本当に楽しむためには、何かしらの努力や継続が必要なのだ。
わかる人にしかわからないという言い方は少々乱暴かもしれないが、そういった喜びは確かに存在するのではないかと思う。