恋愛って難しいよね
私は恋愛が苦手だ。
男なら積極的に行けだの、いい店を用意しろだのなんだの、そういった言い分がわからないことはない。
私も20代前半くらいの時は、恋愛とはそういうものだと思って頑張っていた時期もある。
しかし私も30代前半となり、そういったことを頑張る度に苦痛を感じるようになってきた。
性にあわないのだろう。
特に私のように考えすぎてしまう人間にとって、恋愛のように不確定要素が多過ぎる事柄は向いていないように思う。
結構女性は気まぐれだったり、気分で行動したりする人が多く、一貫性が感じられない。
私が冷静すぎるから余計に合わないと思うことが多いのだろう。
例えば、どういうタイミングでLINEを送ったらいいのかわからない。
しかし送ったら送ったで返事が来ないと気になる。
返事が来ても期待したような内容でなければへこむ。
何か返事を書かないといけない気分になってLINEする…
送れば送るほど疲労が溜まってくるのだ、切実に!
返事なんか気にするなよ、と言われるが、気になるものはしょうがない。
できないことをやれと言われても無理な注文だ。
恋愛は向いていないが、恋愛をしたいという気持ちはすごくある。だから余計につらいのだろう。
恋愛が面倒だの、恋愛を諦めてるだのといっている人が羨ましいとさえ思う。
自分と付き合っていくというのが、人生最大の難関ではなかろうか。。。
他人事社会
今日読んだ記事に興味深いものがあった。それがこれ。
「原因自分説」
原因自分説とは、嫌なことや理不尽なことがあっても、すべての原因は自分にあるという考え。
物事を自分事に考えられない人は多い。これは特に日本人に多いように思う。
例えば、世間を騒がせるようなニュースがあった時、犯罪を犯した個人ではなく、会社側が世間に対して「大変お騒がせしました」みたいな謝罪をトップの人たちが行う。
世間に謝罪するといえば聴こえはいいが、翌々考えてみるとぼんやりしすぎていないか?
しかしおそらくバッシングする人が多すぎるからせざるをえないだけなのかもしれない。
そういったバッシングをする人は自分は安全なところにいながら身も蓋もない批判をする。
正々堂々と批判する人がいないから、謝罪する側も誰に謝ればいいのかわからないのだろう。
「生まれてきた使命」
生まれてきた使命感を持っている人も少ない、というか正確にいうなら持つ必要性がないほど日本は豊かになってしまったのだろう。
ジャレド・ダイアモンド著の「銃・病原菌・鉄」という本に書いてあったが、意外にも先進国よりも発展途上国の人のほうが頭がいい人が多いらしい。
その理由は、発展途上国というのは衛生状態がよくないから、生まれつき体が丈夫な人しか生き残れない。そして社会が不安定で争いごとが絶えないから、生き残るためには知恵が必要になるからだ。
それに対して先進国というのは、衛生状態もいいので遺伝的に体が丈夫でない人でも生き延びることができるし、社会が安定しているから頭が良くなくても社会が助けてくれる。
これを言い換えるなら、本人に頑張る意志がなくても先進国に生まれた時点で長生きする確率が格段に上がるということだ。
つまり使命感など感じる必要がない。頑張らなくても社会が助けてくれるからだ。
変化する幸せ
社会が変化していけば、そこで生きる我々の幸せも変化する。
戦時中だったら生きているだけで幸せを感じられただろうが、今の世の中に生きる人たちは生きているだけでは幸せは感じられない。
これを贅沢な悩みだと考えれば、そこで我々の幸せも変化が止まってしまう。
「原因自分説」と「生まれてきた使命」を考えられる社会というのはとても素晴らしいこと。
衣食住といった生きていくのに必要な最低限の物事のコストがどんどん下がっているから、あとは本人の意志でいくらでも遊んでいくことができるのだ。
不確定要素が多くなった社会だが、それでもまだまだ変化の余地はある。
ネットの弊害
インターネットの普及は、間違いなく効率化社会にとって最も重要な事柄の一つであろう。
しかしそれと同時に弊害もある。意識的に遮断しなければ、常にオンライン状態なので他のことに集中することが難しくなってしまった。
何の用もないのにスマホを触ってみたり、鳴ってもないのに自分のスマホが鳴ったような気がする錯覚に陥ったことがある人も多いのではないか。
リンダ・グラットン著の「ライフ・シフト」という本の中にもこのことが書かれていた。
未来の世界では常にオンライン状態になり、時間の細切れ化が進み、数分単位で連絡が入ってきたりして一つの物事に集中できなくなる。
しかし何にせよスキルを向上させたり得ようとするなら、まとまった時間に集中して取り組まなければならない。
これができないのはキャリアを形成する上で非常にまずい。とかなんとか。
私の住んでいる田舎でさえ電波状況はここ数年で格段によくなり、色んな所にWi-Fiも常備されるようになった。
使い手側が意識せずに勝手にバックアップをとったりアップデートしたり、格段にスマホは進歩している。
意識しなくてもいい状態に保ってくれるようになったのに、今度は意識してオフラインにしなければ気になってしょうがなくなってしまう、というもはやわけのわからない状態にまで情報化社会は進んでしまったのだ。
おそらく人間は悪くない。スマホはタバコや酒と同じ、嗜好品といってさしつかえない。
友達同士、恋人同士で一緒にいるのに喋らずにスマホをいじっている光景を見たことがある人は多いだろう。
彼ら彼女らはスマホをいじりたくていじっているのではない。スマホをいじらないと落ち着かないだけなのだ。
こんな状態では我々のスキルは上がっていかないだろう。
とりあえずご飯はちゃんと食べよう
色々用事が多くなると時間が足りなくなってくる。そうなるとまず削りたくなるのが料理の時間だ。
私は男のわりには料理はするほうだと思う。そんな難しいものは作らないが、簡単なものなら自分で作る。
しかし妙に忙しくなって、しばらくはコンビニとか惣菜で済ませるようになると、あからさまに体調が優れない。
最近ようやく時間をなんとか作って料理をするようになると、少しずつ気分もよくなってきたし、意欲も湧いてきた。
時間が足りないからと行って食事を適当に済ませるようになると、結局簡単なもので済ませることになる。簡単なものとはすなわち油もの。
そんなものばかり食べていたら飽きるし、胸焼けもする。結果、時間が足りないから簡単に済ませてるのに力が湧かずに効率的に動けなくなるという本末転倒に陥ることに気づいた今日このごろ。
必要のない部分を削るのは結構なことだ。しかし必要な部分まで削ってしまうのは賢い選択ではない。余裕が無いとそんな簡単な事実にさえ気づけなくなってしまう。
時間がない時こそちゃんと食事をとって、タフな人間にならなければいけない。
もしくは美味しいご飯を作ってくれる嫁さんを見つけることだw
新しい旅路
とある経済学者によると、2030年頃には人々は生活の為に働く時間が大幅に減るという。
この仮説がたてられたのは何十年も前、まだコンピューターも存在しなかった時代。
しかしその経済学者はコンピューターの先にあるAIさえ予想していたのだ。
これから先の高齢化社会を通り過ぎた未来、大幅な人手不足により、大部分の仕事はロボットが担うようになるという世界の話は聞いたことがあるだろう。
生活のために働く時間が減るというのは、そこだけ聞けばいいことのようにも思えるが、実際問題そうでもない。
それはつまり、余暇の時間が増えるということ。
仕事に対してあれこれ文句を言う人は多いが、その一方で、仕事以外にやることがない人が多いのもまた事実なのだ。
というより、現実に対して不満を言う人の方が、本当のところは仕事に依存している傾向さえあるだろう。
家に帰ってもやることがない、もしくは家族に文句を言われるのでだらだらと残業しているサラリーマンは多い。
もし本当に働く時間が大幅に減る未来が到来したら?宝くじが当たるなどしてもう働かなくてもいいほどの大金を手にしたら?
それだけで本当に幸せになれる人は、おそらくほんの一握りであろう。
もう余計な仕事はしなくてよくなるのに、することがない人々はどうなってしまうのか?
社会が不安定になるのか。
義務教育の段階で雇用される側としての教育ではなく、雇用する側としての教育が増えていくのか。
酒や煙草や博打が社会に蔓延するのか。
なぜ暗い未来ばかりが思い浮かぶのかといえば、やはり我々は知らず知らずのうちに誰かの指示を待っているのかもしれない。
人に自分のやることを決められることに慣れてしまえば、自分の人生をコントロールしようという発想が思い浮かばない。
自由になった社会になってから慌ててもおそすぎる。
少なくとも私のような年齢以下の人々はそういった社会になることを覚悟しておいたほうがいい。
不満がなくなれば選挙をする意味もなくなり、社会主義のような時代になっていくかもしれない。
どちらにしろ結局は、自分のことを自分で決めなければ、どれだけ豊かになろうが、どれだけ自由になろうが、幸せにはなれない。
カズオ・イシグロ「日の名残り」
主人公スティーブンスは現役の執事だが、年齢による衰えの為か、些細なことだが、若い頃には考えられないような過ちをするようになってきた。
そんな時、かつて共に働いていたミス・ケントンからの手紙が届く。その手紙には、共に働いていた頃が懐かしいと書かれていた。
時を同じくして、主人であるファラディが旅行へいくというので、スティーブンスも少しの休暇を与えられる事となった。
いい機会なのでスティーブンスは旅行へ行く決意をする。そしてその旅の道中、ミス・ケントンに会う約束もとりつける。
旧友ミス・ケントンとの再開、かつて仕えた英国紳士ダーリントン卿への思い、旅路の果てにスティーブンスが出した答えとは…
見どころ
・ミス・ケントンとの再開
スティーブンスはかつてバリバリできる男だったのだろう、小さなミスが少しずつ増えてきて自分が歳をとったことを思い知る。
そんな折、かつて共に働いていたミス・ケントンから手紙が届く。優秀な女中頭だったが、結婚し屋敷を去ってから数十年。彼女との再開はスティーブンスにどんな影響を与えたのか。
・かつての主人ダーリントン卿
かつて仕えていたダーリントン卿という人は、アマチュアだが英国に影響力を持った人であった。
英国を陰ながら支えたダーリントンに仕えてきたことが、スティーブンスにとって一番の誇りである。旅の同中、ダーリントンへの想いが鮮明に蘇る。
・旅路の途中で出逢った人びと
旅の最後、スティーブンスは自らの能力がもはやかつてほどなくなってしまったことを憂いていた。そんな時、見ず知らずの男に「一日のうちで夕方が一番いいんだ」と言われる。
その言葉で、スティーブンスは自らの役目を悟る。
カズオ・イシグロとは?
カズオ・イシグロは、幼少期に少しだけ日本に住んでいただけなのですが、日本人がノーベル文学賞を取ったという事は我々にとっても嬉しい事です。(国籍はイギリスですが、両親共に日本人)
この小説は、ダーリントン卿への想いにかなりのページを割いています。スティーブンスの言葉遣いがきれいなのでわかりづらいですが、未練タラタラのネガティブ男のようです(笑)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
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今週のお題「ハロウィン」
ここ最近、妙に盛り上がりを見せているのがハロウィン。10年ほど前はよほどのミーハーでもない限りハロウィンなど知らなかった。
しかし今や私の住んでいる田舎でさえも、仮装した若者だか馬鹿者だかしらないが、そういった連中が飲み屋街を練り歩いている。
確か本場の海外ではトリック・オア・トリート的な、子どもたちがお菓子を貰いに行く行事だったはずだが、なぜか日本では仮装して騒ぐ、といった ふうにアレンジが加わっている。アレンジと言うかほとんど原型がなくなってしまっているが。
そういった外国の行事をアレンジするのが日本人の得意とするところなのだろう。今からさらに10年経つ頃には、また新たな行事で騒ぐのが当たり前の社会になっているのだろう。
世界の果てまでイッテQ!で、宮川大輔が世界の色々なお祭りに参加している。あの中から何か日本に取り入れられるものはないか??
とはいえイッテQで紹介されるお祭りは、基本的にすべて競争である。
日本にあるお祭りや行事には、順位を決めるようなものはそれほどないような気がする。順位をつけるにしてもビンゴ大会くらい。ビンゴ大会は順位付けがあるが競争ではない。100%運に左右されるからだ。
それと同じ理由で日本人は宝くじが好きなのだろう。どれだけダラダラ生きている人間でも、真面目にコツコツ働いている人でも、全く同じレベルで勝負できるからだ。私が思うに、一発逆転を狙ってダラダラ生きている人間のほうが買う確率は高そうだ。
日本人はおそらく、DNA的に争いごとが好きではないのかもしれない。戦争を体験したことのない人でも、争いをさけたいのだろう。
老いも若きも、男も女も、才能のある人間も才能のない人間も、競争をせずにみんなでワイワイしながら同じ土俵で楽しむことができるもの。それがお祭りと宝くじ。
この2つが日本からなくならないのは、あらゆる人間が肩を並べられる機会を誰もが求めているからかもしれない。
それはつまり、みんなで仲良くしたいという平和への思い。