10分前の世界
今回は、認知症になり、施設に入ることになった私の祖父母の話を聞いていただきたい。
今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」
私の祖父母は認知症により、施設に入ることとなった。
それから二週間ほどたったであろうか。
施設の職員によれば、10分前のことも忘れてしまうらしい。
10分前の記憶のない世界とはどんな世界なのであろうか?
興味深い、といえば不謹慎かもしれないが、お金や食事など、自分の命に関わることに対する執着がかなり強い。
母が通帳を預かっているのに何回も確認してきたり、まだあるのにお米を買ってきたり、などなど。
人間は理性が失われてくると、生存本能が強くなってくるのだろうか。
祖父母ともに、若い頃していた仕事の話や、近所にあったお店の話など、昔のことなら鮮明に覚えているが、ごく最近のことは覚えられない。
恐ろしいのは、久しぶりに会っても、まるで昨日会ったかのように話してくることだ。
そして同じ質問を何度もしてくる。
こちらとしては違和感を覚える。
そして次の日、施設の職員さんが祖父母に「昨日、お孫さん来ましたね」といっても、「そうだったかな」というような反応らしい。
二人の記憶の中にいる私は、ずっと昔の私なのだろうか。
二人の記憶の中の私と、今の私の姿が離れれば、私の存在もわからなくなるのだろうか。
10分前のことも覚えていないのなら、目に見えるものがすべて新鮮に映るのではないか?
色んな事が刺激となるのではないか、と安易に思ってしまったが、そういうわけでもないらしい。
認知症はどんどん症状が加速していく一方なのだから。
科学はどんどん進歩している。
実際に、二人は認知症を除けば体は健康そのものだ。
もしがんや腫瘍などができれば、外科手術で摘出できる。
足りない栄養素があれば、注射や点滴で投与することができる。
しかし、つらかった記憶は外科的に取り出せないし、新しい知識を外科的に脳に入れることなどできない。
記憶や意志など、人間にしかない概念は、医療の範疇ではない。
医療とは、あくまでも人間を「生物」として治癒する方法なのだろう。
つまりこれから先の未来、どれだけ医療が発達しても、本人に新しいことを受け入れる気持ちが欠けていれば、医療の恩恵を受けることはできないのだ。
芸人である萩本欽一は、認知症対策の為にかなり高齢になってから大学受験をし、みごと合格した。
彼へのインタビューによると、「忘れていくことはしょうがないから、それ以上に覚えることにした」と。
私の祖父母といえば、まだ家にいた頃、「今日は何をして過ごしたの?」と聞いても、「特に何も。そこらへんを散歩したり、テレビを見たりかな。」など、ほとんど家からも出ずに過ごしていたようだ。
話し相手になりたいが、そんな調子だから何を話せばいいのかもわからない。
段々と祖父母に会うのが億劫になる自分を感じた。
自分で自分が恐ろしいが、施設に入って少し安心している部分もある。
高齢化に突入する現代社会では、あたかも忘れていくことは悪い事のように取り上げられる。
しかしそれは長く生きれば、誰にでも起こることで、当たり前のことといっても差し支えないだろう。
しかしだからといって、その事実に甘えたり、容認すれば、本人も家族も、はては社会が不幸になるだけである。
これからも祖父母の話は不定期で更新していきます。
つづく