Story of my life

日常に転がる疑問を掘り下げるだけ掘り下げて放置

奢侈を尽くす

 私の知り合いにこういう男がいる。


 毎週趣味にせいをだし、本人曰く特に面白いとは思わないが、資格の勉強に励んでいる。彼はお調子者で、みなに好かれている。


 私が彼に対していつも思うことがある。

 

 「もったいない」だ。

 


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 趣味を頑張っているが、別に大会に出るわけでもない。資格勉強を頑張っているが、その資格は彼の仕事ではあまり意味をなさない。


 日本の道徳観から言えば、彼はまちがいなく「真面目な青年」である。もちろん私もそう思うし、イイやつだと思っている。


 しかし私的には、趣味を頑張っているなら公に認めてもらえる舞台に立ちたいし、何か資格を取るならちゃんと使い道のあるものを勉強したい。せっかくの才能を関係のない事に使って時間を無駄にしていないだろうか。

 


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 彼に限らず、他の人に対しても「もったいないなぁ」と思うことはたまにある。せっかく素晴らしい才能を持っているのにうまく使いこなせていない。才能を持っている人は基本的に何でもできる。だから意識してやるべき事を狭めなければ、才能が分散されてしまうのだ。


 要領よく生きるだとか、お金を稼ぐと言った言葉は、日本ではどこかはしたない響きとして聞こえがちだ。反面、大した意味や理由がなくても、目の前のことを頑張っている人は、たとえそれがあまり価値を生まないことでも「真面目な人」として評価される。


 才能があっても目的や使命感がなければ最大限の真価は発揮できない。日本にはそういう人材が多いのではないか。


「とにかく何かしないと」


「とりあえず行動しようよ」


 私はこういった言葉が嫌いである。こういった言葉を言われたら、大体の人が萎縮してしまう。ある程度の方向性が見えているならがむしゃらに行動するのもいい。しかしわけもわからず歩きだして、その方向に崖があれば?

 


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 自分が何をしたいのかわからないのは悪いことではない。行動を起こせない人に足りないのは好奇心である。人々が好奇心を忘れてしまったのは、ネットに何もかも書いてあるからだ。結果のわかっている事にわくわくする人はいない。


 では好奇心を取り戻すには?世間一般の答えを知ることではなく、自分にとっての答えを考えることではないか。


 これからの時代は、単純作業の仕事がAIやロボットに代用されていく。そうなれば人間はクリエイティブな仕事に集中できるのに、ネット社会によって人々が創造性や好奇心を忘れてしまうという矛盾が発生している。


 自分という宝を掘り当てられるのは自分しかいないのだ。