Story of my life

日常に転がる疑問を掘り下げるだけ掘り下げて放置

七つの大罪を思い出せ

 この記事を書くきっかけは私のつぶやきだ。


 キンコン西野さんが11月に新刊を出すということで、以前買った「革命のファンファーレ」を読み直したとツイートしたところ、そのツイートに20以上のいいねがつき、リツイートまでされた。


 あまりツイッターを使わない私にはとてつもない数字だ。

 




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西野亮廣という男

 


 私は彼のブログも見るし、彼に関してのニュースは一通り目を通すくらいにはファンだ。


 これからの社会の生き方を模索する勇敢な男という認識だったが、この一件で改めてただ者ではないということがわかった。

 


競争の放棄

 


 今でこそ落ち着いたが、かつての彼へのバッシングはそれはひどいものだった。
 
 あそこまでバッシングを受けたら普通なら折れるか、逃げて世間の望むとおりの人間になるだろう。


 しかし彼はそれでもなお、自分の信じた道を突き進んでいる。


 その原動力はきっと、自分で自分が努力したと理解しているからだろう。意識できなくても、自分の努力は自分が一番わかっているはず。


 納得していると思っていても、自分が今までどんなふうに生きてきたかは誰よりも自分が知っている。


 99%の人は、自分が努力していない(もしくは足りない)とわかっているから、人の意見に簡単に左右される。


 そして他人のいうように生きることは、努力していない自分を肯定できる口実になる。


 努力していなくても、他人と横並びでも、安心できるならそれでいいのだ。


 生物として最も優先順位が高いのは、「安心」を得ること。それは生存本能と同義だ。


 しかしここで1つ疑問が生まれる。他人と横並びになって安心するというのは、生物としてはおかしい。


 なぜなら、生物は競争することによって進化してきたからだ。横並びになるということは、競争することを放棄することになる。

 


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本能と理性

 


 心の中がもやもやするのは、これが原因であろう。


 人と違うことをして、群れから離れることを恐れながらも、その一方で大勢の中にいると不安を感じる。


 人間は誰でも、心の底では競争がしたい、勝負がしたい、闘いたいという「本能」を持っている。


 しかし、社会という巨大な檻のなかでは、本能は邪魔なものでしかない。建前だとしても、同じ檻の中にいれば他人と仲良くするしか選択肢がないからだ。


  自然界では、折り合いをつける事などありえない。強いものは弱いものを滅ぼし尽くす。しかし人間は弱いものを滅ぼしたりはしない。なぜか?


 その理由は、弱いものをぎりぎりで生かし、安い給料でこきつかうためだ。もし弱いものを滅ぼしてしまえば、面倒な仕事を自分がすることになる。 とはいえ、弱いものでもたくさん集まれば、社会という檻を壊しかねない。


 そのはけ口を作るために、溜まった欲望を誤魔化すために娯楽がここまで多様化したのだ。


 そうやって時の権力者たちは一般庶民をコントロールし、黙っていても富が膨れ上がるシステムを維持してきた。


 しかしその事実に気付き始めた人が、ちらほらと現れ始めた。


 その事実に気付き、大衆を率いようともがいている。その一人が西野亮廣であろう。

 



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ごまかしのきかない社会へ

 


 私達はごまかされているだけで、本当のところは、


いいオンナ(オトコ)が欲しい。


好きなものを好きなだけ買えるカネが欲しい。


邪魔な他人をねじ伏せるチカラが欲しい。


 そう感じている。


 大量生産大量消費社会では、本能は邪魔なものでしかなかった。


 しかしその時代も、もう何十年もしないうちに終わりを告げる。


 モノがあるのが当たり前になり、そんなことでは感動しなくなったからだ。


 私達は「本能」を思い出さなくてはいけない。


 これから訪れる時代では、何の欲望もない人間はロボット以下の存在だからだ。


 本能を思い出せない人間は、このゲームから脱落していく。


 それはおそらく、死ぬことより酷な状態だ。


 爪と牙を磨かずして、生き残れる術はない。


 これから私達は、爪や牙を振るう対象を探して彷徨う生き方に憧れることになるだろう。


 その時代はすぐそこまで来ている。