反論の余地を残すのが会話
最近連絡を取り合っている女性に対しての不平や不満を、とにかくPCで文章に打ち出してみた。
こんなことを直接言うのは最悪だというのは承知しています、さすがに。
そういう、いわば私のストレス解消として気持ちを全てぶちまけてみて、気付いたことを書いてみます。
自分が書き出した意見であるから、これは間違いなく正しい、絶対に私は何も間違ったことは言っていないと思っている。
つまりこれは正論である。
でも、だからこそ誰かにぶつけるのは絶対によくない。
なぜなら正論には、反論ができる余地がないから。
反論ができない言葉というのは、会話ではない。
反論できる余地を残してこその会話だからだ。
ただとにかく強い言葉、間違いのない言葉で相手をねじ伏せて、自分が優位に立ちたいだけの傲慢な、それこそ言葉の暴力である。
正論に太刀打ちできるのは詭弁だけであるから、そこから先は話が脱線するのみだ。
絶対に誰かに対して正論は言わない方がいい。
あくまでも軽い口調で、でも本音を混ぜる。
かつ、相手を傷つけない言葉を探す。
反論の余地を残すのが会話である。
反論の余地を残さないのが正論である。
全く正しい、絶対に正しい、だからこそ言われた相手は何も言い返せない。
それは対等な立場で話し合う機会を放棄する行為だ。
打ち負かしたい相手ならそれもありだろうが、私は相手の女性をねじ伏せたいわけではない、断じて。
ただ、もう少しだけ何を考えているのか知りたいだけなのだ。
誰かを好きになって、改めて会話の難しさを思い知る。
どこまで言うのが素直さで、どこまで言うのがわがままなのか。
さぐりさぐり、やり直しの聞かない道を進むのが人間関係だ。
好きな相手こそ、遺恨を残したくないから、合わないならきっぱり離れるべきだ。
ただ会えればそれでいい、そんな気もするけど、それは依存ではないだろうか。
でも100%愛情だけで誰かと居れるわけもない。
そんな潔癖な関係を求めることこそ依存ではないか。
多少わがままになるくらいがちょうど良いのか。
私と女性の関係は何一つ変わらないが、本音を全て文章にすると、少しは気も紛れる。
やはり私には、文章を書くのが合っているようだ。